10_読書の記録_「錦繍」から人生の癌について考える
私の場合、退院してからも体の調子が悪く、すぐに仕事に復帰することができませんでした。幸い会社からこちらが申し出た分だけ休みをもらうことができ、日常生活に慣れるためのリハビリ生活を2週間ほど設けました。(具体的に何をしたかはまた別の記事にします。)
このリハビリの間、時間がある故にたくさんのことを考えました。これからの人生のことや家族のことなどが主でしたが、元々のマイナス思考に拍車がかかり、ストレスが原因で発症したのに、性格がますます神経質になってしまいました。
主に考えていたことは、「耳が悪いことで不利益を被るのではないか」という不安についてです。
発症前のように仕事は出来ないのではないか
賑やかな場所には行けないかもしれない
差別されたりはしないだろうか
このような考えがグルグル巡り、最終的には「耳さえ悪くならなければ」と考えてもどうしようもないことを思ってしまうのです。
その様子を見ていた母が「どうせ時間はあるのだから」と本を勧めてくれました。
内容(「BOOK」データベースより)
「前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした」運命的な事件ゆえ愛し合いながらも離婚した二人が、紅葉に染まる蔵王で十年の歳月を隔て再会した。そして、女は男に宛てて一通の手紙を書き綴る―。往復書簡が、それぞれの孤独を生きてきた男女の過去を埋め織りなす、愛と再生のロマン。
ぎゅぎゅっとまとめにまとめると、「とある事件をきっかけに離婚した夫婦が再会し、文通をする話」です。
誰もが幸せと評価するような夫婦だったふたりが、離婚後はそれぞれ胸を張って幸せとは言えない、所謂不幸な人生を送ります。文通を通して、なぜ離婚するに至ったのか、なぜその後の人生が不幸になってしまったのかを互いに打ち明けます。
ふたりに共通することは「あの事件さえなければ」という後悔の念です。夫婦は事件を許すことが出来ず、いつも心の中に凝り固まった癌のようにその後悔が居座っていますが、ラストは文通を通してその癌を凌駕するような暖かい情を互いに抱いて物語が終わります。
物語の中に、不幸な人生にやさぐれた男が友人と酒を呑む場面があります。男の友人は医師で、べろんべろんに酔っ払いながら自身の研究について男に講釈を垂れるのですが
「癌は自分自身や。癌を消すには、自分が死ぬしかないんや。」
と言い放ちます。
この台詞は、友人の言う「癌」が男にとっての「あの事件」であることを表現しているのだろうと思うのですが、この台詞に私の心がガツンとやられました。
私にとっての「癌」は紛れもなく突発性難聴の後遺症でした。台詞を私に当てはめると、突発性難聴の後遺症を失くすには、死ぬしかないのです。
字面のみ見るととても悲観的な表現ですが、私はこの台詞によって胸がすっとしました。
後遺症と闘わなくても良いのだ、後遺症も私自身なのだと受け入れられた瞬間でした。
実際、現在は耳のことで不便を感じることはたまにありますが、そのことで悲しくなることはほとんどなくなりました。月並みですが、この本を読んで本当に良かったと思います。
この記事を読んでいる方にもきっと多かれ少なかれ人生の癌があるのではないでしょうか。
難しいけれど、癌を許せたらきっと楽ですよね。
それにしても、大人になってからの方が読書によって思いもよらない感情にぶち当たることが多いです。
それだけまだまだ未熟ということなのでしょう。